ぱんつの視界

見えたこと、匂ったこと、触ったことを、ぽつぽつと。

思い出したこと

はてなのとあるブログを読んで衝撃を受けた。
いろいろなことを思い出したので、同じはてなに書いてみよう…
…と思って、久々にログインしてみたら、4年ぶりだった。
総選挙の直前だった時期で、今読むとものすごく切ない気持ちになる。立憲……。


さて、そのブログは、やしおさんという方のものだった。
TwitterでRTされていた「高卒新人に資産運用を説明する」というエントリを読んだら考えていることがすごく似ていたので、筆者に興味がわいた。

特に、金銭感覚について。零細自営業のうちはお金で苦労してきたので、両親にお金を使わせることに抵抗があった。わたしの場合はシブチンになった。家族を守るためには蓄財をしなければならないと感じ、小学生のときからお年玉はすべて貯金して親に貸した。ちゃんと色をつけて返済してくれたし、そこそこ貯まったら好きなものを買えたから、やしおさんとは事情が違うけれど。
自分で稼ぐようになってからは親の手形を割ったりした。旅行が趣味になったので使う時は大枚を使うが、旅先でも安いものを見つけるのが至上命題だった。歳をとり、それなりの蓄財もでき、ようやくお金に対する執着が薄れた。ごく最近のことだ。

それで、そこにリンクされていた「映画『家族を想うとき』が冷静に見られなかった」も読んでみた。家族が自殺されているとあり、弟やいとこが自殺している自分との共通点をもうひとつ見つけた気がして、そこにリンクされていた以下のエントリも読んでみた。

yashio.hatenablog.com

正直、手が震えた。
思い出した。思い出した。あのときのあれこれ。
似た経験をされて、それを丁寧に言語化したやしおさんはすごいと思った。

せっかくなので、思い出したことを書き留めておくことにする。


飛び降り自殺した弟の遺体が家に戻り、安置された居間には両親や祖母、伯父・伯母ら親戚が集まっていた。わたしはなぜか遺体はもう弟とは別のもののような気がして、ほぼずっとひとりで弟の部屋にいた。正面はきれいだったが後ろ頭がぱっかり割れていた弟の体を見るのが単にいやだったのかもしれない。
そして翌日の通夜までの間、自分の体には初めて体感する生理現象がいくつかあった。

まず、眠くならない。そして腹が減らない。それによる疲れも不快感もない。生物としての生体維持活動が止まった感覚だ。そして、しゃくり上げること一切なく、とめどもなく涙が流れ続ける。涙には脳に悲しみを伝える分泌物が過剰になったときに排泄する作用があるというウソかホントかわからない解釈を聞いたことがあるが、自分の体験からは納得できると思った。

アラ還なので、祖父母や父、仕事の先輩、幼なじみ、20年来の友人など送った人は多いが、弟のときのような体の反応が起きたことはない。あれは「①一緒に生きていくと思っていた人が②突然死んでいなくなる」ことに起因していたように思う。ふたつの条件を満たしていたのは、弟しかいないから。
これは喪失感の一種なんだろう。これまで生きてきた中でそこそこ知っているつもりだったが、心身への影響があまりにも大きすぎて、それが喪失感だと理解するのに時間がかかってしまった。

あと、視線の高さが変わったなと感じた。
警察から連絡が来て、父親と警察署に行ったときから、もう視線を上げることができず、覚えている景色はそのとき父親が履いていた白い革靴のメッシュ部分の造作と、警察署の表からは出せないと言われたために裏口から黒ビニール入り遺体を運び出したとき移動を邪魔した放置自転車の山で、その他のビジュアルはあまり記憶にない。
で、葬儀が終わると、視線が下がらなくなって見るものは空ばかりになった。仕事からの帰路の友は月や金星で、毎日見るから位置や動きもわかってきた。近所の高い建物の階数は何度も数えた。

やしおさんの書く「突然襲ってくる嗚咽の突き上げ」での戸惑いは、どちらかというと初七日を終えて職場復帰してからのほうに多かった。
昼休みに新聞を読みながら弁当を食べているときに、掲載のルポに、娘を交通事故で亡くした父親が「あの子は最期に何と言っていたんですか?」と現場にいた人に聞いた…みたいな記述があると、意識がすぐ自分のことに向かってしまい、その瞬間突き上げに襲われて、トイレに逃げ込み、トイレの個室で嗚咽を殺しながら弟の死ぬ間際の最期の言葉は何だったのか考えたりした。
弟のことを考えた瞬間が発火点になることが多いので、なるべく弟のことは人目のあるところでは考えないようにした。今でもそうしている。もう31年も経つのに。

特に映画や演劇は鬼門だ。予想外に地雷が埋まっているからだ。
公開時に観て大好きになった『ベルリン天使の詩』は、天使が寄り添っていた人が身を投げるシーンからもう冷静ではいられなくなった。『あの夏、いちばん静かな海』は最後のタイトルがバーンと出るシーンから嗚咽が止まらず、トイレに逃げ込み落ち着くのを待ったので、併映の『無能人』はかなりの部分を見逃した。笑いながら観ていたコミカルな演劇もラストで主人公の弟が実は幽霊だったと明かされ、もうまともに舞台が観れなくなった。明るくなった会場でひとり号泣していて恥ずかしかった。人がたくさんいる場所での鑑賞は厳しい。
ドラマでは、姉弟が主人公で弟が死ぬ話が最もヤバイが、たかだか脇役が語るちょっとした人生訓であっても予想だにしない何かに触れて過剰な分泌物を排出しようとするので難儀だ。でも、家で観ているぶんには連れ合いが「またか」という顔をするだけなので問題ない。
これを書いている今も、鼻水がものすごく出てくるのでティッシュの消費がすごい。

こういう現象に手を焼いたり、まれに強い後悔がぶり返したときに心臓が収縮するような痛みを伴ったりもするけれど、こういうのは物理的に実体のなくなった弟が確かに存在していた証なのだから、喜んで引き受けようと思っている。わたしが認知症でぼけても、反射として継続してほしい。


同じような生理現象に戸惑っている方々に、「あなただけじゃないですよ」と伝わるといいな。